文章で人体錬成!
明日(いや今日だけど)卒論の構想発表会だというのに、一年ぶりのブログを開いてなんでこんなことしてるんじゃろ。
これには結構複雑な思いがあったのだ。ブログを開いた今も相当筆が重い。音楽を「音が苦」みたいに、今私は文学が「文が苦」になっている。文学……って自分の文章のこと文学って言いたかぁないが。
私は高校時代、LINEのタイムラインを日記代わりにしていた。衝動的にタイムラインを使っていた。今となっては「TwitterじゃなくてLINEのタイムラインとか、信じられない」と大多数の人は思うだろう。身内にしか見せない日記って普通は地獄だと思う。
なんでTwitterじゃなかったのかというと、理由は3つある。
2015年当時Twitterがそこまで中高生に流通していなかったとか、あとはLINE以外のSNSアプリをスマホに入れるという発想がそもそもなかったとかいう「Twitterが遠い存在だった」こと。
あとLINEだと見てくれる人がリアルの友達や先輩であるため、暇つぶしのTwitterと違って日常的な連絡手段であるLINEは「より」見過ごされにくいような実感があった。周りにこういう文章を好んでくれる方が多かったせいもある。
それから、LINEの字数制限のなさと、投稿した後に修正できる機能、これが大変便利だった。
なに、厳密に言えば理由6つじゃんて。たしかに。
閑話休題。日記なんで基本的にとりとめがないけど、最初の方の「文が苦」現象について戻って説明したい。私は「文自体が苦」というより、ソーシャルメディアに出ていくのが怖いというのが本当のところだ。
不特定多数の人に見られる文章というと、たとえ日記なんていうていだって、どうやっても私は気を抜いて書くなんてことできない。文章の言い回し、顔の知らない人に伝わるように、自分の背景を説明すること、すごく気を遣う。神経がすり減る。なのに、どんなに良い文章ができても、私を欲しがってくれる人、認めてくれる人、そういう人が現れる確証がない。
LINEの日記が怖くなかったのは、リアルで会う人なら、日常の私あっての、それに付帯する「私の文章」だったのだ。
でも、こんな、ブログってやつでは、この文章でしか私を見ることができないし、この文章で初めて、読者のなかの「私像」が生まれる。1から自分像を創っていかなきゃならない。まるで人体錬成をする気分だ。文体、漢字表記かひらがな表記か、分量、すべてが私の血肉になっていくのだ。
だからここ一年近く、ネタをメモ帳で書いては自分のパソコンに溜めてというのばかりやっていた。そのまま外に出せなかった。一方で、高校生という身分の保障されていた時代と違い、今からタイムラインを始めるのはすごく厳しくなった。ブログは書いても苦しいし、書いてアップしなくても苦しい。
書きためてあるネタの山↓
ここまで書いてきてなんとなく理由がつかめてきたが、多分私の苦しさの原因は、私は自分像を完璧でいようとするきらいがあるらしい。要するに見栄っ張り。まぁな。
大学の授業で一昨年くらいにやった、心のゆがみ心理テスト的なやつで「あなたは”べきべきやるべきさん”だにゃ!」とかいうコメントがあった。にゃ。猫語はおいといて、要するに「なんでも~するべき」という完璧主義の罠に陥りがちだということ。
それの何が悪いんだろう、適当に物事完成させて満足できる人より、きっと高みを目指せるんだと思っていたけど、まさしく「べきべきさん」の悪いところがモロに出ている。工夫し始めたらきりがなくて、今も「べきべきさん」の画像もってくるかー、そっちのほうがわかりやすいよねとか思っちゃった。疲れる。
でも不思議。長文を書くことは全然疲れない。これだけでも文章を書く素質の一つだと思って良いのかしら。なに、これが疲れる原因か。では諸刃の剣か。そもそも長文ってまずウケにくいから、長文しか書けないのはデメリットともいえる。とにかく、ウケることを期待するのに疲れた。
ここまできて、今の私の像は読者にどう映っているのだろう。願わくば、なるべく面白い人物が、皆さんの頭の中に人体錬成できているといいな。
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